2011.09.11
「十津川・紀州大水害」の歴史 台風12号襲来 再び“防災教育(授業)”を考える
◆紀伊半島を襲った「台風12号」
「東日本大震災」の発生から半年が経過するところです。「福島第一原子力発電所」の爆発に伴う“放射能汚染”が未だ収束しない今日、「台風12号(8/25発生)」が高知県東部に上陸(9/3・土)しました。「台風12号」は中国地方を縦断後、日本海へ抜けましたが、各地に甚大な被害を及ぼしました。とくに《紀伊半島では降り始めの8月30日17時からの総降水量が、多い所で1800ミリを超え(気象庁)》、山岳に浸透した雨水で山が“深層崩壊”し、木々や土石が川に流れ出たことにより“段波(ダンパ)”が発生し、河川周辺の集落には津波が襲来したような爪痕を残したのです。
◆「大水害」の歴史があった
地震の発生は、暦年上約50~100年周期で見ると言われますが、台風や大洪水による被害の歴史も、同様に長期スパンで考察して備えることが必要なのかも知れません。この度の「台風12号」の襲来で甚大な被害を受けた「十津川村(トツカワムラ:奈良県)」は、奈良県最南端の村(推計人口:4,045※)ですが、過去に遡及すると、(a)暴風雨と大洪水による『十津川大水害(1889/8/18・日)』や、(b)秋雨前線による『紀州大水害(1953/7/18・土):南紀豪雨』の歴史がありました。
◆再来した「大水害」
前者(a)の大水害による村民死者は168人に上り、大雨による大規模な山腹崩壊が発生(1,080か所)し、天然ダム(土砂ダム)決壊に伴う洪水で、生活基盤を喪失した人は約3千人に上りました。一方、後者(b)も記録的な集中豪雨による大水害で、千人以上の死者・行方不明者が出たとのことです。そして今日、再び悲惨な歴史の繰り返しとなってしまったのです。
◆母村は「十津川村」
前掲(a)の大水害後の「十津川村(奈良県)」の悲惨さはその壊滅的な被害のみならず、翌年(1890年)、村民が《新たな生活地を求めて600戸・2,489人が北海道への移住を決断》し、“新十津川村”が開村(現在:新十津川町)された歴史が物語っていると思います。即ち、大水害から逃れるべく村民(被災者:2,691人)が遠地北海道に移住(徳富川流域)し、“新十津川村”が誕生したのです。従って、「十津川村(奈良県)」と「新十津川町(シントツカワチョウ:北海道)」の“村(町)章”は現在も全く同じで、新十津川町民は「十津川村」を母村とし、小学生をはじめ人的交流が行われているのです。恥ずかしながら、私はこのような史実をTV報道(9/7)で初めて知ったのですが、繰り返される大水害の歴史に留まらず、双方の“村&町の絆”が続いていることを、改めてブログ読者の皆様にお伝えしておきたい思いに駆られました。
◆“防災授業”の必要性をアピールした
ところで、過日(防災の日)の当ブログ記事(下記【ご参照】)で“防災授業”の必要性をアピールしましたが、それは次のような趣旨です。例えば、前掲のような大水害の史実に関しては「歴史」の授業で、また、「深層崩壊(表層崩壊もある)」や「段波」等々については「理科」や「地学(これは高校ですが)」の授業でも実施可能ではないかと考えた次第です。
◆「防災教育」実施の高校
その後、私はこの「防災教育って何?」という疑問に関し、全国唯一の防災学科を設けた「兵庫県立舞子高校(神戸市)」の諏訪清二先生(環境防災科科長)の明解を知ったという経緯です。即ち、《多くの教員にとって防災教育は日常の授業とはかけ離れた「特別なこと」》と捉えられていますが、《防災教育を「特別なこと」にしてはならない》と。そして、《「防災文化」の創造》を目指す中、《防災教育は学際的でさまざまな教科・科目にかかわって》いるので、《どの教科・科目でも防災教育が可能》と諏訪科長は主張されているのです。
◆東北でも“防災教育(授業)”を
因みに、前記の「兵庫県立舞子高等学校」は、「阪神・淡路大震災(95/1/17)」発生で校舎等を被災し、避難者を受け入れた学校で、「環境防災科」が設置されたのは震災発生から7年目(2002/4/1)のことでした。「東日本大震災」後の東北地方でも、近い将来に“防災教育(授業)”が実施されることを期待するばかりです。
※奈良県市町村別推計人口(奈良県知事公室統計課)
【ご参照】
●ブログ記事(11/9/1日付)
:『《提言》防災の日 東日本大震災 全国の中学・高校で“防災授業”の実施を』。
【資料】国土交通省公表資料。気象庁公表資料。奈良県公表資料。北海道新十津川町公表資料。兵庫県立舞子高等学校HP資料。